劇場版『涼宮ハルヒの消失』−”TVアニメシリーズ”の外部としての「映画」−


劇場版『涼宮ハルヒの消失』は、2006年に第一期シリーズが、2009年に再度、新作を加えて第2期シリーズが放送されたTVアニメシリーズ『涼宮ハルヒの憂鬱』の劇場版作品である。
劇場版では、TVシリーズでは描かれなかった、原作ライトノベル(2003-、角川スニーカー文庫)の一編『涼宮ハルヒの消失』(2004年8月1日刊)が映像化された。


3時間近くある長編ではあるが、観終わった後、元気をもらったような気がした。




本作は、観客に対して、非常に間口の広い映像作品になっていて、それこそ、純粋なラブストーリーとして観ることも、ヒロインの長門に萌え転んで観ることも可能だし、全編に漂う儚い空気感や映像美、心に染み込んでくる音楽に酔いしれる事も可能である。


だけど、僕が”元気をもらった”のは、おそらくそれらではなく、『消失』が「映画」であったことの意義。意味のほうに理由があるように思う。




原作小説およびTVアニメシリーズの基本構造として、「非日常」な出来事が次々に起こっても、物語の中心は、あくまで「日常」の高校生活であり、「日常」の大切さ・意義を再発見し、回帰する物語であった。


だが、原作でも、特種な位置づけにあると思われる『消失』のエピソードでは、「日常」よりも「非日常」を中心に物語が進行し、”「日常」の高校生活”がほとんど描かれずに終わる。
その為、TVシリーズでのアニメ化では、全編に横たわる作品テーマと祖語が生じると思っていたが、「映画」でのアニメ化というアクロバティックな方法をとることで、「消失」というエピソードの再配置に成功したのではないか。


つまり、「TVアニメシリーズ」という”「非日常」はあるが「日常」を選択し肯定する物語”をカッコの中に一旦入れる事で、その「外部」として『消失』を位置づけ、最終的に「TVアニメシリーズ」に帰還するという構造が立ち上がったのではないかと考える。


そういう視点で考えた場合、本作は、原作エピソードの「消失」を咀嚼し、再配置することで、2重の意味で”「日常」を肯定する物語”を成立させ、原作ライトノベルやTVアニメシリーズをさらに強化する事に成功したのではないだろうか。
まさに、「映画」である必然性があった作品と言えるだろう。




ここで、物語における『消失』の世界を位置づけるならば、それは、「日常/非日常」(TVシリーズ)という括りではなく、「改変された日常=理想の日常」としての「楽園」ではないかと考える。

「楽園」には「非日常」が存在しない変わりに、「非日常」を夢想し、望むことが可能であり、それはある意味、救いと希望があるセカイである。

対して、TVシリーズにおける「日常/非日常」では、「非日常」を目の当たりにしながら、それでも、あえて「日常」を選択するセカイであり、もはや、「非日常」に救いや希望を見出すことが出来ない。

そして、主人公のキョンが選択したのは、TVシリーズにおける「日常/非日常」のセカイであり、それは、そんなセカイを生きていこうという態度の表明(変更ではない)に他ならない。

TVシリーズでは、事なかれ的に享受していた”「非日常」はあるが「日常」を選択し肯定する物語”を『消失』においては、自覚的に選び取る。

それは、この現実こそが、即時的な希望がないセカイだと認識し、それでもあえて、そんな社会を生きていくしか無いのだという、ボクたちの感覚と重なっている。




このボクたちの感覚に『消失』が即し、この切実な生き方を肯定し、しんどさを分かち合える作品であったからこそ、”元気をもらえた”のではないかと思っている。