『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』ネタバレあり

下記の文章は、作中のネタバレを多分に含んでいます。
本編をご覧になってからお読み頂けると幸いです。



























『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』−”引き裂かれる”物語


『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』は、TVシリーズあるいは、TVシリーズの総集編たる劇場版前・後編の続編であるが、それに留まらない別の何か、1本の「映画」として大変素晴らしい作品になっている。


TVシリーズでは、制作陣の組み合わせ、キャラクター原案の蒼樹うめ、シリーズ構成・脚本の虚淵玄、音楽の梶浦由記、アニメーション制作のシャフト、異空間設計の劇団イヌカレー、そして、監督の新房昭之シリーズディレクターの宮本幸裕という異色の組み合わせそのものが目新しく、この作品の独特なカラーを創り上げる事に成功した。
劇場版では、TVシリーズと同じ布陣ながら、組み合わせの妙に胡座をかく事なく、各スタッフがその分野の方向性をとことんまで突き詰めた事で、どれひとつとってもハイクオリティな絶妙なバランスで成り立つ奇跡的な出来映えに仕上がっている。


その中でも、「物語」について注目してみたい。


まず、TVシリーズでは、「システム」との闘いが主題であったと思う。
「システム」とは魔法少女=魔女を生み出す仕組みであり、自動的に主人公たちにのしかかってくる重みである。だから、最終的に闘うべきは「謎の組織(大きな物語)」でもなく「特定の敵(キャラクター)」でもなく、「自己の内面(他者との恐怖)」でもなく、「同類たち(サヴァイヴ)」でもなく、世界の理そのものであった。なお、この変遷は「物語」での「敵」の在り方の歴史を綺麗にトレースしており、それだけでも本作の価値がうかがい知れる。


そして、TVシリーズにおいては、物語は最終的に「システム」を上書きする事で決着する。しかし、結局、「システム」による支配という構造は変わっておらず、「キャラクター」が「システム」という概念に変化した以上、本来のその「キャラクター」の欲望や価値判断がどうなるのかまでは、うやむやのままであった。



さて、新編である。


本作の舞台は、作中キャラクターであるほむらの「願望」の具現化した偽りの楽園として用意されている。その願望は、主人公であるまどかに最も顕著に現れているとされているが、これらの「願望」とは、視聴者たる私たちの「願望」でもあり、だから、私たちはほむらに感情移入し、物語の推移を見守ることになる。


作中に於いて、重要なファクターになっているのが「違和感」である。
いるはずのないキャラクターの存在や設定の齟齬、あるいは、主人公たるまどかがいつもニコニコしている(!)など様々な違和感が物語内に配置されており、それらを違和感として認識できる唯一のキャラクターであるほむらが感じる違和感が、そのまま視聴者の違和感として認識でき、ほむらと視聴者の結びつきはより強固になっていく。
それらの違和感が収斂し、ほむら(と視聴者)という個人の判断や懐疑が偽りの楽園の崩壊へとつながっていく。


そうして、違和感の正体を発見し、解消したカタルシスに浸る視聴者に、物語として劇的な変化が訪れる。
それは、作中のシーンで、まどかとほむらが再会した瞬間に訪れる。
「私が裂けちゃう」と叫び、まどかの存在が2つに引き裂かれるのである。
しかし、ここで真に引き裂かれているのは、「物語」であり「視聴者」のほうである。


今まで、ゆるぎない共存関係を続けていた「ほむら」と「視聴者」が唐突に分離される。ほむらの言動が、視聴者の願望を裏切るようになるからである。
これ以降、ほむらは視聴者の感情移入を徹底的に拒む存在として描かれる。
ほむらの「願望」であった偽りの楽園の崩壊と同時に、視聴者が望んでいた(同化できるキャラクターとの)心地よい作品世界も崩壊してしまう。


(視聴者にとって)別種の存在となったほむらは、個人としての欲望を噴出させる。それは、もはや視聴者のものではなく、ほむらという「他者」としての欲望である。その、ほむらという「個人の欲望」は、ついには「システム」を覆す。
「システム」を「システム」によって上書きするのではなく、「個人の欲望」が「システム」と拮抗しうるものとして描かれているのは重要である(だから、キュゥべえの「君は何を書きかえたんだい?」に対する応えが無い)。
この時点で、「システム」の内容を巡る攻防から、”「システム」という存在”への懐疑へと闘いはシフトしている。決して「システム」に回収されることのない「個人の欲望」を持って、「システム(秩序)」に抵抗し、叛逆し続ける存在としてほむらは闘っているのである。



私たちが今、生きているこの社会は、高度にシステム化され、もはやシステム無しには回らない社会である。そんな社会に於いて「個人の欲望」は、あってはならないものなのだろうか。秩序が生きる環境を整えるなら、欲望は生きる動機になるものではなかったのだろうか。
私たちは、システム的秩序の必要性を理解しつつも、個人の欲望を捨てきれないでいる。「秩序」と「欲望」に引き裂かれている。
そんな引き裂かれた二重性を持って、私たちは今を生きている。