『あまちゃん』−なぜ、潮騒のメモリーに感動したのか。「変わらない」物語について。
不覚にも『あまちゃん』最終週・第153回で鈴鹿ひろ美が歌唱した「潮騒のメモリー」に感動してしまった。何度も何度も繰り返し観てしまう。
なぜ、ここまで感動したのか。
それは、変更された歌詞「3代前からマーメイド」が大きなファクターになっているように思う。
先んじて告白しておく。
このドラマは、宮藤官九郎が脚本を担当するという事で注目はしていたのだが、本格的に観始めたのが「震災編」からであり、僕は謂わば『あまちゃん』の”あまちゃん”である。なので、短い駄文とは言え、見当違いの事を書き連ねる事になるかもしれない。何卒、ご容赦頂きたい。それにしても、こんなに良く出来た作品であれば、最初から観ておくんだったと後悔することしきりである。
さて、変更された歌詞についての話である。
まず、このドラマは、「変わらない」事を肯定し、希求する物語であると考える。
主人公のアキは「おらは変わらねぇ」と言い、その母である春子は80年代の幻影を伴い、祖母の夏は震災があろうとも変わらず海に潜り続ける。
対して、親友のユイと女優の鈴鹿ひろ美は変わり、移ろう存在として描かれる。
閉塞感と行き詰まり感を伴いながら、しかし、「地元」北三陸は、変わらないでほしい理想郷として描かれている。だからこそ、震災後、「元に戻そう」というストーリーが駆動するのである。「変わらない」事への羨望が、”失って気づくもの”として立ち上がってくる。
そして、作中にて最も「変わらない」を象徴しているのは、1986年から歌い継がれてきたという設定の「潮騒のメモリー」である。曲調のアレンジや歌い手を変えながらも、歌詞はそのままに、「不変の象徴」として存在し続ける。
ところで、作中に於いて、”世界の広がり”は、場所の違いとして平面的に認識されている。主たるものは「地元」と「東京」の対比である。
80年代であろうとも現代であろうとも、それは、場所の違いとしてシームレスに語られる。
「変わらない」天野家の3人(アキ・春子・夏)も、同じ平面上に立っている。だから、東京編を経て、この3人が地元に揃うと妙な閉塞感を伴ってくるのである。
最終週近くになって、東京編での主要人物が、地元・北三陸の町内に集結し始めると、世界はどんどん狭くなっていく。閉塞感が極限にまで高まってくる。
そして、このタイミングで、鈴鹿ひろ美の「潮騒のメモリー」が歌唱される。
それは、「不変の象徴」たる歌詞を変更したものである。
それは「変わらない」「潮騒のメモリー」を地元・北三陸を、そして、天野家3人の立ち位置を「変えた」のである。
それまでは、同じ平面上に立っていたアキ・春子・夏の3人を「3代前から」という歌詞で関係性を再発見させることにより、「場所」だけだった世界に「世代の積み重ね」という時間的認識を導入するのである。
「世界」の認識のしかたを「潮騒のメモリー」を聴かせることによって改変し、発見させる。
それまで、閉塞感を感じていた「場所(横軸)」だけだった世界認識を3世代のつながりという「時の流れ(縦軸)」という突破口を導入することでダイナミックな変化を起こし、心を揺さぶる。だから、感動したのである。
「変わらない」事は停滞と同義ではない。
「変わらない」でも、世代を重ね継承していく事で、人の営みをつないでいく事は可能である。
過去・現在・未来を見据え、その上で今を生きていく。
そんなテーマが内包されている作品なのではないかと感じた。
それらを踏まえた上で、『あまちゃん』とは、「変わらないこと」=「甘ちゃん」のままでいることを肯定する物語であったのではないだろうか。