「百合」作品について考えるー「世界観」としての「百合」

ちまたにあふれる、いわゆる「百合」を題材にしていると謳っている男性向けコミック作品を読んで違和感を覚えることが多々ある。最近も、ある「百合」コミックアンソロジーを読んで違和感を覚えた。これらは、果たして「百合」作品なのだろうか?


そこで、この違和感の正体。「百合」とは何なのかを考えてみた。
結論を先に書く。
「百合」とは「世界観」である。
特に男性向けの「百合」作品では、その百合的な「関係性」よりも、それを通して浮かび上がってくる「世界観」こそが重要だと考える。


これは、いわゆる美少女ゲームシナリオライター元長柾木氏の言葉、「美少女ゲームとは本質的に、ジャンル名ではなく世界観だから。」(『美少女ゲームの臨界点』(2004波状言論刊・158頁)に大いに触発されての発想である。
そして、おそらくは男性向け「百合」作品は、その「美少女ゲーム」の延長線上にあるものである。


「百合」作品における「世界観」とは何か?
それは、そこで描かれる「百合」的な「関係」の社会的な是非やポジション、例えば、その関係性は社会(コミュニティ)的に許容されているのか、反社会(コミュニティ)的な事なのかなどの倫理観をきちんと考える事で浮かび上がってくる背景世界の事である。違和感を覚える作品は、それらに無自覚であると考える。「百合」的な関係性の向こうに世界が見えないのである。


作品例をあげれば、今、男性に人気が高い百合コミック/アニメ作品であるなもり氏による『ゆるゆり』(一迅社・2008-)では、女子中学生たちのゆるい「百合」関係が誰に咎められる事もなく日常の一風景としてある”やさしい世界”が描かれる。読者/視聴者が惹かれたのは、この百合的関係をも許容する”安心でやさしい世界”であると考える。
また、女性向けレーベルで出版しながら、男性にも人気が出た「百合」小説の草分け的作品である『マリア様がみてる』(集英社コバルト文庫・1998-)では、”リリアン女学園”という舞台と”スール(姉妹)”というシステムを用意する事で、「百合的関係」になる事の方が、むしろ正常であるという異質な世界観を構築した。これが、男性の支持を集めた大きな要因だったと考える。


女性向けのいわゆる「BL」作品では、逆に男性同士の「関係性」をどう描くかが重要視されると考える。「世界観」という概念自体が後退し、念頭におかれる事は少ないのではないだろうか。BL作品は、作者や読者は登場キャラクターに感情移入し、自身を投影させる事で作品として成立する。読む人間こそが最後のパーツとして存在する。だからこそ、カップリングや受け攻め論争が成り立つのである。
しかし、男性向けの「百合」作品は全く違う。
作者や読者は、あくまで「物語」の外側に立っている。読者は、吉川ちなつや福沢祐巳に自分を投影したりはしない。ただ、遠くからその作品世界を眺めるだけである。だからこそ、物語全体に横たわる「世界観」こそが重要なのである。
「百合」と「BL」は、単純に性別が置き換わったものではないのである。


以上はあくまで個人的な見解だが、だから僕は、「世界観」が見えないのにも関わらず、「百合」的な要素があるだけで「百合」作品というカテゴリーを名乗る作品に違和感を覚えるのである。