安全保障関連法案の強行採決への「恐怖」

本日、残念なことだが、安全保障関連法案が与党により強行採決され可決された。僕は明確に反対の立場であり、不安を抱きながら採決の行く末を見守っていたのだが、その際にそこはかとない「恐怖」を感じていた。それは、未来や将来への「恐怖」とともに、”安倍晋三”という異質な存在=「モンスター」への「恐怖」であった。


多数の国民や識者の声を軽やかにスルーする様は、”安倍晋三”という異質な存在への断絶感を感じさせるとともに、その存在への奇妙な現実感の無さをも感じさせた。それはつまり、反転して、”安倍晋三”から見た時に、デモや反対運動を行っている国民や識者は異質な存在であり、「モンスター」だと感じているのではないだろうか。だからこそ、お互いの存在にリアリティを感じられず、コミュニケートの深刻な断絶が穿たれているのではないか。同じ社会にあって、互いの存在は完全に乖離している。


その背景として、現在の日本社会に於いては、「システム」が高度化したことにより、別種のコミュニティに属する存在と直接的に対話したり接触しなくても生活出来てしまうからではないかと推測する。自分の属するコミュニティ以外の存在は、忘却し、直視しなくても生きていける。だから、他者に対して無関心になるし、すぐさま忘却しても問題ない。昨今の重大な問題事項が明るみになっても、社会的にすぐに忘れ去られてしまうのは、この背景が関係するのではないかと思っている。今や、対人や対コミュニティの折衝による社会形成より、「システム」の方が上位にあり、いい社会とは、いいシステムの構築と同義になっているのである。人が対峙しているのは、他者や他集団ではなく、システムなのである。


90年代後半から、いわゆる「セカイ系」作品と言われる作品群が隆盛したが、それは、「システム」の高度化(あるいは、「システム」は社会から離れて自立しているという共有認識)に起因したのではないかと考える。「セカイ系」的想像力とは、自分は「システム」とのみつきあえば、とりあえず生きていけるという感覚が前提にある。
そして、「社会」という中間層に対峙することなく社会がなんとなくうまく回ってきた結果、「セカイ系」的想像力の帰結として今回の安全保障関連法案の強行採決に至った気がする。
セカイ系」作品は「システム」を取り込む事で文学的な芳醇さ(創作作品の可能性の広がり)をもたらしはしたが、「システム」自体に不備があった場合の修繕方法や「システム」抜きでの生きる方法を弱体化させてしまった。そして、おそらく、もっと必要だったのは「批評」である。「システム」自体に言及し、解体し、再構築しうる「批評」の言葉がもっと必要であったはずである。「セカイ系」作品は、実は「批評」を必要としていたのではないか。「批評」による「システム」の解体や社会への接続が積極的に行われていたら、今回の断絶や乖離も、違った局面があったのではないかと空想してしまう。


そして、おそらく、今、必要なのは、”安倍晋三”という「モンスター」を人に戻す事である。「設定」をまとった”安倍晋三”という名前を持つ空虚な存在ではなく、1人の人間として認識すること。「システム」を介さずに「他者」としての”安倍晋三”を認識し、痛みを忘却しないこと。「システム」から記憶を奪還することではないだろうか。


異なるセカイに存在する僕と彼の人は、同時に、同じ社会に生きるひとりの人間であることを自覚し認識することが大切だと思う。