劇場アニメ『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』−弱体化する「物語」と軽量化する「表層」−

以下、ネタバレあり




























TVアニメ第一期シリーズ『魔法少女リリカルなのは』(2004、以下「無印」)のリメイク劇場版である本作は、無印よりもパワーアップした、ダイナミックかつスピーディなバトルシーンなどの映像美が楽しめる良質なエンターティメント作品になっている。


だが、それを実現する為に、意識的・無意識的に関わらず、”重い”(主に主人公の1人である”なのは”の)「物語」が慎重に取り除かれている。
つまり、作品全体が軽く、物語構造の支配が弱くなっている。


先日、当ブログにて書いた無印の総評にて引用したセリフ、

なのは「愛されている自覚は、とってもありますが、この一家の中では、なのはは、もしかして、微妙に浮いてるかもしれません」

なのは「そして、戻ってくる私の日常。今まで通りだけど。いろんなことがあった分。今までと少しだけ違う日常」

のそれぞれが、カットされており、結果、高町なのはの日常からの逸脱(乖離)と救済・帰還の「物語」が機能していない。そもそもが、「日常」(家族、学校)をほとんど機能させていない(家族のセリフすらない)。
その為、”日常化からの逸脱者”としての同等の存在としてのフェイトとの出会いの意義が薄れており、”ともだち”の成就と別れでの(観客の感情の)流れが、無印で補完していないと把握しずらくなっている。


また、無印序盤にあった”よくある魔法少女もの”を本作では用意していない為に、その後の”バトル魔法もの”への急激な変化にカタルシスを感じられなくなってしまっている。
つまり、”「魔法少女」もののフォーマット”からの逸脱が機能していない為、バトル描写以外の「物語」においての緩急が無くなってしまっている。
無印にて、なのはの「逸脱」にリンクしていた「舞台」の広がり、”海鳴市”から”時空”への広がりが、本作では唐突に感じられたのも、ここらへんに起因するものと思われる。


全13話のTVシリーズを丁寧に2時間弱の尺にまとめようとした為、要素の取捨選択に迫られたことは想像に難くないが、その選択比重は、おそらく”重さ=「物語」”より”軽さ=「バトル」”であったのだろう。


しかし、個人的に非常に残念ながら、TVシリーズの総集編を越える「映画」には至らなかったように思う。


ただ、「無印」と比べた場合、急激な方針変更であるかのように思ってしまうが、第2期シリーズである「A's」、そして、第3期シリーズである「StrikerS」の作風から考えれば、むしろ正統な流れであると言える。


今の時代は、「物語」ではなく「表層」。「構造」よりも「映像」。「思考」よりも「快楽」を求めているのだろうか。


本作は、その映像美と迫力ある音声に身を委ねれば、充分に楽しめる娯楽作品に仕上がってはいるものの、無印の冒頭で心地いいショックを受けた身としては、複雑な心境である。