『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』−「つづく」という外部。示唆を受けて−


初見から、約1ヶ月後の2013年の元旦に、相方たる親友との2度目の観賞を行いました。
その後のディスカッションにて、親友から新たな視座を得るに至った指摘があり、僕の解釈が更新されたので、その事について書き記します。

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の解釈について、いくつかの更新を行いたいと思う。
この更新は、相方たる親友からの示唆に寄るものである。


親友曰く、『エヴァQ』は、『エヴァ』を「庵野秀明の物語」から解放させたかったのではないか。「庵野秀明」=「エヴァという作品」という図式からの解放。作品として、「成長」させるのではなく「更新」を行うべくつくられたのではないかという指摘であった。
これらに関しては、僕の理解が完全では無いので、適切な説明を行うことは難しいのであるが、ただ、大いに共感し、新たな視座を得るに至った指摘があったので、そのことについて、ここに書き留めておきたいと思う。


エヴァQ』と旧劇場版が、対の関係にあることは、親友も同意見であった。
しかも、さらに進めて、『エヴァQ』は、旧劇場版に、むりやり「つづく」を挿入した、いわば”<完結した>「つづく」”をラストに提示出来るように再構築された作品ではないのかという指摘に大いに感銘を受けた。
どういう事か。
それには、まず、主人公たる碇シンジの、旧劇場版と『エヴァQ』での葛藤の質の違いを明確にしておく必要がある。
旧劇場版に於いて、碇シンジは、悩み・葛藤するが、それは、あくまでシンジの内面世界に収斂するもの、自分はセカイそのものであり「一人の物語」であった。
しかし、『エヴァQ』においては、全く質が異なる。それは、シンジが行った事に対する「責任」に対する悩み・葛藤である。「責任」とは、すなわち、自分以外の「外部」が無いと成立しない概念である。つまり、自分と世界が分離している。
そして、物語における「つづく」とは、極めてメタ的な言明、立ち位置にある。つまり、「つづく」という概念は、物語の「外部」にしか存在し得ないものである。「外部」は意識的に配置されているのである。


エヴァQ』における「つづく」という言明は、ストーリーや作品の連続性を予告するものではなく、あくまで「外部」を配置する為に挿入されたのではないだろうか。意識的に、むりやりに。「つづく」という言明は、自分と世界を同一化する力に亀裂を入れるのである。『エヴァQ』という物語は終わるが、世界は「つづく」。ストーリーの先があるから「つづく」の掲示があるのではなく、「つづく」という言明を行う為に物語を再構築したのではないか。だからこそ、自分の物語に収斂させずに、ある意味、散漫な物語になったのではないか。


この指摘には、目から鱗が落ちる思いであった。