劇場アニメ『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜』−「ポジショニング」と「自意識」と−


この劇場アニメの原作となった田中ロミオによるライトノベルは、いわゆる「中二病」(作中では「妄想戦士」)をモチーフとしつつも、いわゆる「スクールカースト」の仕組みに迫った興味深い作品だった。
原作ラノベに於いては、「学級」というコミュニティ内での、自分の「位置づけ」こそが最も関心のある問題事項として物語が構成される。そこでは、過度なキャラ付けこそが「中二病」であり、コミュニティ内での位置づけを変動させる要素として警戒される。本作の「中二病」は、あくまで「学級」というコミュニティの存在が前提であり、「学級」内部だけに留まるものである。これはそのまま、物語の限界であり、その限界を示すことこそが「物語」を突破しうる契機を与えてくれている。
なお、本作の類似作品として、否応なく想起される京都アニメーションの『中二病でも恋がしたい!』に於いては、「中二病」は、萌要素の一つとしてヒロインに付与されるものであり、あくまで、ヒロインを「かわいく」みせる為のギミックである。コミュニティや対人関係とは無縁のものであり(なにせ、「学級」とは別のコミュニティを自前で立ち上げるのだから)、「ばれると恥ずかしい」という個人的な動機に支えられた物語である。当然、これらは、意図的に構築されたものであり、だからこそ、共感しうる等身大のライトな物語を語ることが可能になっている。


しかし、劇場アニメ版に於いては、「スクールカースト」への言及は弱く、「学級内でのポジショニング」についても、あまり重視されていない。ヒロインの「本当の自分」=「自意識」についての葛藤、自分ひとりのセカイを捨てて主人公の居る現実セカイへ戻るか否かの葛藤を中心に据えた物語構成になっている。「こっち側/妄想/あるべきセカイ」に閉じ籠もろうとするヒロインを主人公が「そっち側/現実/狭量なセカイ」に連れ戻すというシンプルな構造に集約されている。


「普通」にすること=「学級」というコミュニティへの復帰が、ポジショニングの軋轢調整という、戦地へのエントリーであった原作に対し、学級内でのポジショニングという視点を抜きにした場合、劇場アニメ版での「現実」への回帰は、ある種敗北的なニュアンスを抱いてしまう。ポジショニングのために「アウラ(オーラ)」=”空気を読む”という切迫感、切実感がスポイルされ、いかに「自意識」と折り合いをつけて生きていくかという処世術の話に収まってしまっているのが残念ではある。


劇場アニメ版は、「イタくない」エンターティメント作品に軟着陸するようチューニングされた印象のある作品である。