劇場版『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 2nd A's』-消えた「各家の事情」-

以下、ネタバレあり




























TVシリーズ魔法少女リリカルなのはA's』は、「八神家」救済の物語であった。

つまるところ「八神家の事情」に、なのはとフェイトが干渉する物語であり、その2人にも、それぞれ「家の事情」があり、だから、作品全体として「各家の事情の物語」として上手くまとまっていたと言える。
だから、「家」や「家族」の存在は非常に重要であると考える。


しかし、劇場版『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 2nd A's』に於いては、「八神家の事情」が物語の縦軸としては弱く、むしろ、その時々に於いて物語の主軸となるキャラクターが移り変わってしまい、ブレてしまっている印象を受ける。
これは、すなわち、物語の重要なファクターとして機能していた、なのはとフェイトの「家の事情」が描かれていない為であると考える。
つまり、幾度も自室のシーンがあったにもかかわらず、(家の外観-自室の窓-自室内というショットが多用されていた事からも象徴されるように)なのはの家族描写が全く無く、”魔導師”としての活動を家族に隠していることや、その打ち明け話という重要なシークエンスがオミットされていたこと。フェイトに関しても、”ハラオウン家の養子になるか悩む”という「家・家族」に関する最も重要なエピソードがオミットされていたこと(アリシアプリシラとの邂逅には必須になるエピソードだったにも関わらず)が、作品全体のまとまりを無くし、物語の力を弱めてしまった原因だと考える。
「八神家」「高町家」「テスタロッサ家」「ハラオウン家」のそれぞれの家に事情がある=様々な家の事情があるという下支えこそ、「八神家」救済の基盤となりえたはずなのである。


そして、致命的なのは、漫画版から入れ込まれたという、なのはがはやてに対して言う「はやてちゃん、大人っぽい」という主旨のセリフである。映画のなのはとフェイトは、はやてと同じステージに立っていない!
少なくとも、TVシリーズの無印『なのは』には、「世界からの疎外感」というテーマが根底にあった。高町なのはフェイト・テスタロッサはともに、世界からの疎外感を感じており、だからこそ、深く惹かれ合い友達になったはずなのである。そして、この「疎外感」が、なのはやフェイトに「子ども離れ」した「大人っぽさ」や「危うさ」を付加させていた。
対して、八神はやても、「子ども離れ」したキャラクターである。それは、「家族」の全てを無条件に許容するという「家長」として完成された包容力に依拠する。しかし、この「子ども離れ」した包容力は、同時に「危うさ」も感じさせる。この「子ども離れ」した「危うさ」こそが、なのはやフェイトと共鳴するところであったはずである。しかし、この「大人っぽい」発言により、なのはとフェイトは、ふたりして「子ども」に待避してしまうのである。
だから、劇場版A'sにおいては、なのはとフェイトの「子ども離れした大人っぽさ」が後退している。その結果「大人っぽいセリフ」からも凄みが消え、上滑りしてしまっているのである。「子ども」に待避した二人からは、「危うさ」が消え、睦まじい関係が描写され続ける事になる。
なのはとフェイトの二人で関係性が完結した結果、「八神家」は孤立し、物語はますます力を失っていく。


残念ながら、劇場版『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 2nd A's』は、TVシリーズの只の総集編、ベストシーンチョイス集に留まっていると思わざるを得ない。
「映画」としての力、意義を感じない次第である。

(12.07.18 20:30微妙に修正しました)